和気町紹介の動画


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(1分04秒)

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特産品の紹介

和気町の町政について

 和気町は岡山県の東部にあり、東備圏域の中核として古くから栄えてきました。町の主な産業は農業で、将来は農業構造の改善や大型・集約化を図り、近郊都市の農業生産圏としての役割を担っていかなければなりません。
 一方では、瀬戸大橋・新岡山空港の完成と、山陽自動車道の開通などによって「全国一日交通圏」が夢ではなくなりました。
 こうした広域交通網の整備は経済活動圏、人口交流圏の大幅な拡大をもたらすことが期待されます。
 そこで、これらの大型プロジェクトをうまく活用して、町の活性化を図る事が今後の町づくりの基本と言えます。

 二十一世紀に向かってはばたく町づくり。
 和気町は、今、施策の中心課題として次の3つをあげています。

(1)経済基盤の確立

 経済基盤の確立は、農業構造の改善、商店街の再開発、企業誘致から成り立ちます。

(2)生活環境の整備

 下水道の整備・交通網の 対策など、より一層の 改善を目指します。

(3)豊かな文化生活の進展

 「和気清麻呂生誕の地」、「自然美あふれる町」とPRを掲げ環境資源の開発に力を注ぎながら、スポーツ・レクリエーション施設の改善も目指しています。また、コミュニティー活動として、地域の実情にあった文化、スポーツ行事、奉仕活動などに取り組んでいます。

吉井川

 北から流下する吉井川。日笠川は保曽から南流した後、町を二分しつつ東から流れ込む金剛川に合流します。そして清水に源を発して北流する初瀬川。
 すべての川がひとつになる場所で吉井川は大きく向きを変え、蕩々たる流れとなって西に向かいます。その曲がり角の少し上流こそ、かつて舟改番所や波止場が置かれ、交通の要衝として古来より栄えてきたところです。
 高瀬舟や渡し舟が行き交い、人や物が往来した川。人々の暮らしと共にあり、絶えることなく流れ続ける川。和気町の歴史も文化もまぎれもなくこの川が育んできたものなのです。
 水と親しみ、川とかかわりあいながら生活環境を見つめ直しています。全ての生活に不可欠な水。これからの充実した町づくりにも、生活用水、工業用水、農業用水が安定して確保され、供給できることが求められます。それらの整備に重点をおいて、計画を進めています。
 吉井川河川公園は平成元年十月に開園しました。建設省の「桜づつみモデル 事業」の指定を受けて三年計画で整備を進め、総事業費約二億七千万円をかけて完成したものです。ゲートボール場、サッカー場、ゴルフ場、 そして多目的広場が整備され、 さらに親水エリアが設けられています。和気町では将来にわたって、水に親しむ公園づくりを進め、中小河川にも独自の整備を行っていきたいと考えています。  この写真は、眼下に河川公園を見下ろしながら「和文字焼き」の準備をする有志たちです。  和気町では三月と十月の年二回、町内一斉の河川清掃に取り組んでいます。行政区ごとに環境衛生指導員を通じて呼びかけをし実施しています。  自分たちの地域を自分たちの手できれいにするという社会参加の意味と、水に親しみ、日常生活の中で川を汚さない努力をするという意識の向上が目的です。


和気町の歴史について

黒姫伝説

 仁徳天皇は元の名前をオオサザキの命といい大和朝廷の王でありましたが、干拓事業のため難波の高津宮にて政治をしていたので、高津宮とも呼ばれていました。しかも応神天皇の王子時代から活躍していて、大阪湾の干拓事業の他にも住吉の港を開いたり、「枯野」という巨大船を築造したりしてもいます。
 また、民家からかまどの煙が昇らないのを見て、税のとりたてを三年間見合わせたことから聖の御世とも褒めたたえられ、民は進んで奉仕したと伝えられていますから、古代天皇の中で一番有名なのはこの仁徳天皇だと言い切ってもよいでしょう。
 オオサザキの命がまだ王子だった頃、髪長媛とたいそう盛大な結婚式を挙げて結ばれましたが、縁がうすかったのか彼女は早逝されました。
 次に磐之媛を妻に迎えようとしたところ、父の応神天皇がおかくれになります。その応神天皇には妃が10人もいて、それぞれに王子や姫がいてその総数は26名にもなるといいますから、お家騒動があって当然の状況になります。
 磐之媛は天皇家からは家臣にあたるタケシウチノスクネの血筋でありましたが葛城氏の勢力を背後に画策し、大変な苦労の末オオサザキの命を天皇に仕立てることに成功しました。
 そうしたことから、自らの手で権力を手に入れた磐之媛命は、葛城氏に匹敵するとも劣らぬ吉備の勢力を日頃から良く思っていなかったのです。

 黒姫が吉備から到着した日、磐之媛命は醜女から吉備の海部直(水軍の長官)の娘が新しい妃に入ると聞き錯乱状態になってしまいます。そのとき、磐之媛命は多くの品を叩き割りましたが、その中に問題のゴホウラ貝の腕飾りも混じっていました。錯乱を止めに入った女官クチヒメの機転から、宮中では磐之媛命の機嫌をそこねぬようにと、とりあえず黒姫の身分は采女とすることが決まりました。
 そんなことから、磐之媛命は自らを大后と呼ばせ、事あるごとに、黒姫を“海賊の娘よ”となじったのでした。
 あるとき、大后は黒姫の持っているゴホウラ貝の腕飾りに目を止めました。これは、仁徳天皇が黒姫に贈ったものだったのですが、あろうことか以前に大后にも贈っていたものと同じ品だったのです。
 大后は自分のゴホウラ貝の腕飾りを、黒姫が盗んだと決めつけ、難波の高津の宮から追い出し吉備の国へ追い返せと命じました。二人に同じ品を渡した仁徳天皇はそのひけめから口だしをする事ができず、ただ高台に登り、黒姫の船出を見送るだけだったと言います。

 そのとき、天皇は『沖方には小舟つららく黒鞘の まさづこ我妹国へ下らす』と歌をお詠みになられました。すぐさまこの歌が磐之媛命に伝えられると、再び磐之媛命は怒り、使いをやらせ、黒姫を徒歩で吉備へ帰すよう命じたのです。
 それでも、ふびんに思った者が黒姫に小舟を用意しますが、磐之媛命の怨念は恐ろしく竜神に通じたのか、黒姫は落雷と暴風雨の中で翻弄されることに....。須磨の海岸に打ち上げられたのはすべて女の家臣ばかりでした。

 幾日か後、吉備の国と播磨の国の境界にある八木尾の関所で往来するものを取り締まっていた伊太比は破れた衣を身にまといながらも、どこかしら気品の感じられる娘一行を取り調べ、父の佐伯命すなわち和気氏七代の伊比遅別王に報告しました。
 聞けば吉備の黒姫一行で、しかも当の黒姫は慣れぬ旅で目が見えなくなってしまったといいます。医薬に通じていた佐伯命は早即、吉井川のウナギを黒姫に食べさせました。すると黒姫は見る見る内に体が回復し、目も見えるようになりました。
 これこそ神村山に鎮座する神々の神通力と信じた黒姫は、けなげにも天皇との再会を一心に神に祈りました。大和と吉備の結び付きが国の礎になると考えた佐伯命は、仁徳天皇と黒姫に通じ、二人をめぐりあわせる計画を立てたのです。すなわち、佐伯命は仁徳天皇に、淡路島へ行くと告げて船で西へ出発しなさいと、…さらに追手が気付き、黒姫の住む玉島方面の海上探索が厳しくなる頃、吉井川を溯りなさい、そこに黒姫を呼び寄せておきましょう、と計画の全貌を歌にしたため口伝をする女官フミヒメにゆだねました。
 フミヒメの歌を聞いた天皇はすぐさま、淡路島へ行ってくると告げて旅立ちます。天皇が淡路から明石へこっそり渡った頃、運よく暴風雨がふき荒れ、朝廷との連絡は遮断され、天は黒姫に味方しました。その明石には伊太比が道案内として待機していて、その後手筈どおり仁徳天皇は吉井川を溯り佐伯へと向かったのです。

 吉井川の中流にある山方は正に佐伯命の本拠地でありました。現在の「ふれあい橋」の付近は、そのころ吉井川を挟んで鳥居がつながっていましたが、二人はこの鳥居の列を、舟でくぐり再会を果たすことができたのです。そのとき二人は、舟が近寄るのももどかしく、身を乗りだしてお互いを引き寄せたといいます。
 行宮の用意が整わなかったので、佐伯命は二人に八木尾にあった命の宮所を貸し与え、二人に束の間の逢瀬を約束しました。
 翌朝、天皇が目覚めてみると一夜を共にした黒姫の姿が見えません。あわてて建物の外に出てみると、黒姫が天皇に差し上げる吸い物に入れる青菜を摘んでいたのでした。
 天皇はその傍らへ寄り添い『山方に蒔ける青菜も吉備人と 共にしつめば楽しくもあるか』と歌をお詠みになられました。
 食事を饗応することは大和朝廷への服従を意味してもいました。やがて大任のある天皇は大和へ帰っていかなくてはなりません。

 黒姫は『大和方に西風吹き上げて雲離れ 退きに居りとも吾忘れめや』と歌いその心の内を明かしました。
 さらに『大和方に往くは誰が夫 子守鶴の雛よ這えつつ 往くは誰が父』と詠み、子供が宿った事を告げたのです。
 しかし、黒姫はこのことは秘密にしておく方が良いと考え、すぐさま『大和方に往くは誰が夫 隠水の下よ這えつつ 往くは誰が夫』と詠みなおし、“地下水でもよいから愛しい人の住む大和へ流れておくれ”という歌に替え、朝廷とのいざこざを避けました。

 天皇は大和に帰り、やがて、黒姫はかわいい姫を生みます。そして何年かが過ぎ、仁徳天皇は異母妹にあたる八田若郎女を物部氏より妃に迎えたとき二度目の事件が起きます。
 新しい妃の事を聞いた磐之媛命は嫉妬に狂い、山里に篭り、やがて死んでしまうのです。
 政略のためはからずも仁徳天皇の正妻に据えられた八田若郎女は、あえて子を生まず、黒姫とその子の事を聞き、二人を祝福し、慈愛をこめて生まれた姫が無事育つようにと、田と倉を与え、さらに矢田姫の名前まで授けてくださいました。
 その田のあった所が八田若郎女の名をとり矢田部という地名に、国の屯倉だということで三宅(加三方)という地名になったといいます。
 子供の居ない筈の八田若郎女の御子代田が佐伯にあるのはこういう言い伝えがあるからなのです。